樹まぐれ日記

四季折々に変化する樹木など植物を観察して樹まぐれに日記を書いています。

田んぼ(その3) 収穫

下の写真は上から順番に、
① 田植え後の6月18日、
② その約1ヵ月後(初夏)の7月23日、
③ 収穫が近い9月18日、
④ 収穫直前の10月8日、
⑤ 収穫後の10月23日、のものです。

①  田植え後の6月18日
2023.6.18
⇒ 田んぼ

② その約1ヵ月後(初夏)の7月23日2023.7.23
⇒ 田んぼ (その2)

③ 収穫が近い9月18日2023.9.18
北海道道央地区の稲の収穫時期は9月下旬~10月中旬。
写真の稲の収穫までにはもう少し日にちが必要なのですが、稲が倒れてきています。
爆音器のドッスーンという音がときどき辺り一面に鳴り響きます。 スズメ除けです。

④ 収穫直前の10月8日
2023.10.8
収穫作業はまだですが、ほとんどの稲が倒れてしまっています。 これで収穫できるのかな?と心配になります。

⑤ 収穫後の10月23日
2023.10.22
3023.10..23
刈り取った後に残る切り株が見えるので、稲刈り作業は無事終わったようです。10月中旬頃だったのでしょう。 今時のコンバイン等収穫機は、完全に寝ている稲でもちゃんと刈り取ってくれるようですね。

〇 稲が倒伏する理由
稲が倒伏する原因はいろいろあるようです。
① 草丈が伸びる品種(昭和40~60年代?までは最も美味しいお米の一つと言われていたササニシキが代表的な品種)節間が長いので倒れやすい
② 夏の成長期に日光不足で丈夫な株ができない
③ 肥料のやりすぎ、特に窒素肥料で成長して大きくはなるが、軟弱に育つ
④ カビの病気や虫の害で茎の強度が弱くなる
などが原因で倒伏するようです。 詳しくは以下のページで

⇒  くぼたのたんぼ  

〇 稲架掛(はさかけ);稲を刈り取った後に自然乾燥させるために稲をかける木を組んだもの。

⇒ 新潟最北端コシヒカリの産地からのページよりお借りしました
http://www.niigata-kome.jp/blog/2016/09/20160928.html

中学生時代はテニス部に所属していて、体を鍛えるためにときどきみんなで持久走を行うのですが、距離にして4~5kmほどでしょうか、学校の外に出て走るのです。 そのコースは川沿いの田園風景が拡がるところでした。 稲の収穫が終わった農道沿いに私の背丈の2~3倍くらいある稲架掛けがところどころい設置してあって、そこをハァーハァーと息を切らしながら走り過ぎます。 そのときに※干してある稲の香り、それは干し草とはまた違う、稲穂があるために?独特の香りが漂ってくるのです。

ただそれだけのことなのですが、百合が原公園の近くにある田んぼの傍を行き交うとき、その当時の田園風景と稲架掛けを通りすぎるとき漂ってきた稲の香りのことを思い出すのです。

近頃は稲架掛(はさがけ)を見ることはほとんどありませんが、今から50~60年前、私の中学生のころまでは、稲を刈り取った後の田んぼにこれをよく見かけたものです。
それをよく見かけることができたのは昭和40年代初めまでです。 東京オリンピックが昭和39年(1964年)に、大阪万博が昭和45年(1972年)に開催されて、日本の高度経済成長期の最盛期の頃を迎えると、日本も豊かになり、日本人の生活様式や食生活など全てが急激に変わりつつある時代でした。 私が初めてレタスを食べたのが中学年のころで、それまで野菜と言えばホウレンソウのおひたし、ダイコンやはくさいの漬物、それに夏場のキュウリ、トマト、なす、ピーマンくらいなものでした。 小学校の給食はご飯ではなくパンでした。 それまでの冬の暖房はこたつと火鉢でしたが、石油ストーブに変わりました。
この日本が豊かになったことによって日本人の生活様式が急激に変わったのです。その変化の副作用?で日本人の主食であるお米が余り出したのです。 食料不足の戦後から米が余り出す昭和40年代(1970年代)までは政府は米増産の施策をしていましたが、昭和43年(1969年)からは、水田は残して置くけれど、とりあず米を作らない休耕田制度が始まりました。 そして、その数年後からは水田を他の作物に変える「転作」が始まったのです。
私がその当時見た稲架掛けは、休耕田制度が始まった頃のものなのでしょうか。 その頃になると稲の乾燥も手間のかかる自然乾燥から重油などを燃やす機械乾燥の変わっていったのでしょう。それ以降、稲架掛けを目にしたことは記憶にないのです。 この50~60年で今まであった日本の田園風景は劇的に変化したのです。
 

 

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