スイカ  

漢字では一般に西瓜と書き、英名はウォーターメロン。 いつか雷電の海岸を歩いていたとき、『水瓜あります』と書かれているのを見て、西瓜よりは水瓜のほうがぴったりだと、わが意を得たり満足したことがありまた。
ところがものの本に、『西瓜、西域より出でたる故に西瓜といひ、水中に冷やし食う故に西瓜といといふ』とあり、また、「なんぼ静岡だって水瓜くらいありますよ」と、夏目漱石の『吾輩は猫である』に書かれていました。
水瓜を誤字と思い込み、大きな発見でもしたかのように考えた浅学の身を後日、大いに恥じ入りました。

<大きな果実に似ず可憐な花>
 ウリ科1年草、雌雄同株だが単性花。植物体や果実の大きさからすると小さく、径3cmくらいで淡黄色、花冠は輪状で5深裂しています。 各葉腋に1花ずつ開花するが、雌花は5~10節おいて着き、ほかの花はすべて雄花です。
2017.6.30
 夏は早朝4時ころから開花を始め、6時ころにはやく(葯)が裂開してミツバチの来訪を待ちます。働きものの彼らは、天気がよいと1花に30~90回も訪花するといわれていますが、降雨の日はお休み。 だから雨の多い日は不作ととなります。
「スイカを切らずに種の数ばかりでなく、配列までわかります」とは、最近の新聞で見た電気メーカーの宣伝文句。 タネは品種によって差があり、400~1,000粒くらいです。

<世界一おいしい日本のスイカ >
原産地は南帯アフリカ説が有力で、エジプトでは4,000年前、ギリシャでは3,000年前から栽培されていたといわれています。 古くエジプトではタネを食べていたようで、中国でもスイカのタネを瓜子(コウテイ)といって料理に用いられ、そのための専用種もあるくらいです。
 わが国には中国を経て渡来しましたが年代は不明。 南北朝の時代のころにはすでにあったようです。 明治になってアメリカより多くの品種が導入され、日本人好みのものに選抜されたのが大和西瓜と呼ばれるもの。 タネなしスイカは、京大の木原グループの研究になるもので画期的な研究として世界的に有名です。
 スイカはもっとも庶民に愛される果実でしょう。 それだけにわが国の育種は、他国の追従を許さないほど進んでいます。 しかし、食味と品質を追うあまり耐病性に欠け、現在栽培されているほとんどのものは台木に接ぎ木をしています。 

<スイカ  味覚に開拓の苦労をしのぶ>
札幌近郊でスイカの産地として有名なのは手稲山口。 ここは明治15年。 山口県人の移住によって開拓されました。 入植日浅い明治15~16年に天日を覆うばかりのトノサマバッタの来襲にあい、作物ばかりか野草まで食い尽くされて、その惨状は想像を絶するものがあったと記録されています。 永山屯田兵大佐が兵を率いてバッタ軍に応援したと伝えられ、大浜海岸の近くにあるバッタ塚、当時の名残りを止めるものとして保存されています。
 海岸の不毛地帯にクワをおろし、かん難辛苦のすえ、スイカを適作として見つけ、市場に出荷したのが昭和初期。 戦時中は不急作物として扱われ、戦後再び脚光を浴びるようになりました。 ひとつの野菜特産地が世に出るには、隠れた人たちの血と汗があるのです。(札幌市農業センター 林 繁)

上文に明治の初期に手稲山口に襲ったトノサマバッタの惨状が述べられています。 そして、私たちはその地にバッタ塚があることも知っています。 しかし、バッタ塚がどのようなものであるかを案外知りません。 私も以下のページを見つけて目に鱗でした。
アフリカの草原や畑作地を食い尽くすバッタの凄まじさをテレビで見ることがあります。 しかし、それがなぜアフリカなのか?、それがどのようなメカニズムで発生するか?を知りません。

以下のページはそれらのことを教えてくれます。 読みにくい場合はページをクリックすると読みやすくなります。
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