しめ飾り

下の写真は我家の玄関に飾り付けたしめ飾り。 この飾りは毎年1月7日、七草がゆを食べる頃に取り外して、暇を見つけて神社にもっていっています。

今年も例年通り、何も考えずに昔からの慣習に従って飾っています。 最寄りのスーパーで買ってきました。 クリスマスが過ぎると、スーパーの店内は正月関連の商品に模様替えをして、お店の一画にしめ飾りのコーナーが設けられます。 高価なもので数千円から500円程度の安価なものまで多種多様なしめ飾りが並んでします 我家のものは最低クラスの800円程です。

ご近所のしめ飾り。 大きさは高さ1m近くあり、我家の低価格しめ飾りに比べ、トドマツを使ってボリューム感出しています。

しかし、この風習・慣習もだんだんと廃れてきているようです。 年明けから朝の散歩でそれとなく各戸の玄関を見て歩くと、このしめ飾りを玄関に飾ってあるお宅は意外と少ないのです。 5~6軒に1軒くらいの割合でしょうか。 以前(10~20年前?)はもっと飾ってあったような気がします。

我家の周りは、昭和60年代~平成の始めに建てられた住宅がほとんどで、そこに住んでいる人は、私と同年代か少し年上の、昭和20年代の生まれの、日本が先の戦争に負けた直後かその後に産まれた、所謂団塊の世代で、まだ戦後間もない昔の風習や慣習が色濃く残っているいる時代に生まれ育った人達です。 その彼らが職を求めて札幌に来て、新しい家を建て、子供が出来て、その子供たちと一緒に生活している時期までは、彼らに日本の伝統や昔の慣習を後世に伝えていくという気持ちがあったのか?、幼い頃に見聞きし教えられた慣習を思い浮かべながら、スーパーで買ってきたしめ飾りを飾っていたのです。 しかし、その子供達も成長し、家は夫婦二人だけになって正月に子供達が帰ってくるものの、何代も続いている農家や商家などと違い、代々受け継がれてきた慣習を守り続けなければならない動機がほとんど無い世代にとって、その気持ちが薄らいでいくは当然の成り行きで、その流れは理解できるものです。 おそらく、我々の子供が私と同じ年代になる頃には、玄関前のしめ飾りも当たり前の姿ではなくなっているのでしょう。 この日本で古くから受け継がれてきた風習・慣習は、アメーバが生息域を侵食拡大していくように、都会の新興住宅地から徐々に徐々に侵食されて無くなっていくのでしょうか?

<余談:お正月の神棚>
私の故郷は福井県の西部、若狭地方で、実家は商売をしています。 店には商売の神様、恵比寿様?を納める神棚があるのですが、お正月には別途座敷に神棚を設けて神様をお迎えするのです。 親は年の瀬で忙しく、これらお正月の仕来たり、神棚を準備するのは子供の役割になっていました。 年に一度のことなので何をどこにセットするかなどその配置が定かではなく、ああだこうだと言いながら正月の準備をしたのを憶えています。

納屋に仕舞ってあった、1年に1回だけ使う道具?神具?は、
長さ1.5m、幅40cm程の長机に畳の上敷きに使うい草?を簡易に編んだすだれのようなもので被い、その上の中央に40cm?四方の黒塗りの三宝※1のようなものを置き、その左右には熨斗口※2、と灯りを配置します。
三宝の台座にお米を三角錐に盛り、その頂上に昆布を巻いて筒状にしたものを置き、その上に小さなミカンをのせたような記憶があります。 お米の山の裾野に黒い鉄製の、ひげの長いエビがミカンを見上げるように置きます。 三角形の熨斗口は白くて細長い徳利状の陶器に挿し、灯りは十字型の木製台座で、その三方に真ちゅう製の皿を2枚重ねて置き、それに油を注ぎ、白いひも(灯芯:家では “とうしみ ” と言っていた)を寝かせて火を灯します。
神棚の後方の壁には掛軸をニ幅垂れ下げます。 一幅はどうも記憶に残っていないのですが、もう一つは天照大神という大きな字が書かれていたので憶えています。

※1:三宝:さんぽう、身近なところでは正月の鏡餅を載せる台
※2:熨斗口:神棚の瓶子(へいし)と言われるお酒を入れた陶器に刺さっている物の名前で、 神酒口( みきくち)や熨斗口(のしくち). と言う。

年越しそばを食べて紅白歌合戦が始まる、大晦日も本番を迎える頃、明治生まれの父親が神棚の前に正座して拝むのです。 この1年を無事に終えられたことを感謝し、来年もいい年であるようにお願いしたのでしょう。 神様と何をお話しているのか?、その手を合わせるときは思いのほか長いものでした。

 

 

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