カボチャ

カボチャは、種子をはじめ、植物体、花、すべてがジャンボ。 雌雄同株で異花、鐘状で明るい黄色から橙黄色で目立ち、昆虫を魅了するには十分です。 雌花は、環境や栄養条件、品種によっても着花が異なりますが、通常親づるの数節めに第1花が、その後4~5節ごとに次々とつき、基部に球状の子房が見られます。 一方、雄花はつるの基部に多く着生し、常に•雌花より数が多く、花梗は細く長いので一見して雌雄の識別ができます。
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開花は早朝、7月では5時ごろが最盛ですが、9月になると4時ごろ、これは日長による影響のためと報告されています。 最初の花が咲き始めてから最後の花が咲くまで1時間足らず、そして、午後になるとしぼんでしまうという短命・働きバチたちの訪問は、朝5時半ころから始まって10時ごろにはさよならをします。 だから、花は、その美しい姿を午後まで維持することが無意味なのでしょうか。

<原産地>
カンボジアと信じられていましたが、古書によると、
「南瓜は最初東印度亜東坡塞国(かんぼちゃこく)に生じたる物也、故にかんぼちゃとも名づく」
とあり、農業全書にも、
「南瓜(なんくわ)は是南方より来る故かく云うなるへし」
と記されており、比較的近年までこのように信じられていました。 しかし、その後の考古学的発掘から、アメリカ合衆国以南の南北両アメリカ大陸であることが立証されました。
わが国へは、コロンブスの新大陸発見後、わずか50年で渡来しています。天文年間(1532~1555年の間:室町時代)、ポルトガル船が豊後(現在の大分県)に漂着、国主大友宗麟に種子を献じたのが始まりとされています。 その後も長崎などに入り、短時日のうちに全国に波及し、土着したのが日本カボチャといわれる一群で、高温多湿の本州では生育するけれども、寒地では不適でした。

<北海道は、おいしいカボチャの特産地>
明治になって、開拓使により導入されたのが、クリカボチャともいわれる西洋種。 寒地で良質の澱粉が蓄積され、粉質で味覚は最高です。 “ まさかりカボチャ ” といわれた “ ハッパード ”は、果皮が硬く、斧でなければ割れなかったことから名づけられたものです。 “ カステラカボチャ ” といわれた “ デリシャス ”、豊産で“成金カボチャ”といわれた “ 中村早生 ” は札幌の中村嘉寿太氏の育成になるもの。 北国の生活に貢献したこれらの品種には、それぞれ愛称がありました。

<卑下したカボチャに生命(いのち)支えられ>
カボチャ頭、カボチャ野郎に始まって、果ては酌婦や遊女の代名詞に使われたという作物。 見栄えが悪く、どこでも容易につくれることから生まれた言葉なのでしょう。 これほどさげすんだカボチャに、戦中戦後の食糧危機にさんざんお世話になったのも、ずいぶん皮肉なことでした。 全国に名をなす詩の都の大通公園も、立ち並ぶ高層ビルの地面も、あのころは、カボチャがつくられていたのです。 古来冬至にカボチャを食べ健康を願う風習も、ビタミンや栄養の多いことに由来するものと思われます。
(札幌市農業センター 林 繁)

<余談 その1>
来週の火曜日、22日は冬至です。カボチャが夕食の1品として出される家庭も多いのではないでしょうか。 カボチャはビタミン類など栄養が豊富で保存がきくことから、野菜の少ない冬場に食べらるようになったようですが、「なぜ、冬至にカボチャを食べるようになったか?」は、以下のウェブページに詳しく書かれています。   興味のある方は  →  冬至にカボチャを食べる

<余談 その2>
「カボチャはビタミンAが多く、カロリーも高い。 また、その栽培には労力、肥料、農薬も少なくてすみ、収量は多く、生産効率が高い。 したがって、戦中、戦後の野菜不足時にはいわゆる「必需野菜」として活躍したが、とにかく多収穫をということで、品質は劣悪となり、ついには、茎や葉まで配給されたのである。 野菜の生産が正常に戻るにつれて、その恨みからか、カボチャは見向きもされないような傾向があったが、10年ほど前(昭和43年頃:1968年頃、今から47年前後)からはまた需要が相当に伸びてきている。 それはセイヨウカボチャの小型品種ができ、それの品質がよく、しかもビニールトンネルで早出しされるようになったからである。

セイヨウカボチャは、戦前は北海道や山間の冷涼地帯でつくられていた。 ポクポクしたいわゆるクリカボチャである。 しかし、晩生で収穫はおそく大型すぎたので、これが早生、小型の品種に改良された。 また、栽培の後半が高温になりすぎ、病害が多発し、品質が悪かったが、ビニールトンネルによる早出し栽培が普及し、冷涼産地のような品質の良いものができるようになり、これが、戦後のカボチャ生産を再興させたといってよい。・・・・・・・」

上述の<余談 その2>は “世界の植物” カボチャの冒頭の一文ですが、これが書かれたのは昭和50年代前半で、林繁さんが書いている “野菜の花” もそれと同時代に書かれています。 林さんは、昭和初期の生まれですが、“世界の植物” の著者もおそらく同年代の生まれのようで、両者のカボチャについての書き方は違っても、戦中戦後の混乱期にカボチャの置かれていた情況、その当時、苦しい時代を生きていた人々にとって、カボチャに対する思いは似かよったものがあるようです。