ミナヅキ

2012.8.25
豊平区の精進川緑地で見つけたミナズキです。 アジサイが最盛期を過ぎて終わりを迎えようとする頃に、ミナヅキの花が咲いていることに気付きます。 個人の庭でも時折り見かけますが、豊平公園の駐車場の北側にも植えられています。


2016.8.4                                 2016.9.8                                2014.10.19
上の3枚は、同じミナズキを8月、9月、10月と時期をずらして撮っています。 白から薄紅、薄紅から濃いピンク(ローズ)に変化しています。 「こんなのがあるのか?」と驚いてしまいました。 以前、ノリウツギの園芸品種「ウツリベニ」を紹介しましたが、このミナヅキ(品種不明)は、開花後約2ヵ月かけてローズ色に変容しています。

2016.9.8
ノリウツギの品種(不明) 花色が変化するものが多いようです。

<余談>
ミナヅキは、ウツリベニと同様ノリウツギ(アジサイ科)の園芸品種。 ミナヅキは、ノリウツギの雌しべと雄しべのある両性花のほとんどが 装飾花になったもの。

※ 装飾花 とは、特殊化したの型である。 たとえば一つの花序で周辺部の花のみに花弁が大きく発達している場合に、そのような花をこう呼ぶ。 花序全体を目立たせ、訪花動物を誘引する効果があると考えられる。
たとえばアジサイの場合、個々の花は4枚の花弁状の構造(実際には萼片)が大きく広がって平面を作り、そのような花が多数集まってくす玉のようになっている。 このような花には果実を生じず、これは花の雄しべ雌しべが不完全だからである。
実は、アジサイのこのような姿は人工的な品種改良の過程で出来たものである。 野生種であるガクアジサイではこのような花は花序の周辺部のみにある。 それ以外の花はこのような花弁状の構造は見えない代わりに、遠目には目立たないが4枚の萼片の他に5枚の花弁、10本の雄しべと1本の雌しべを持ち、完全な花の形をしている。 これに対して花序の周辺の花では萼片が大きく発達する代わりにそれ以外の要素は不完全となっている。 これは生殖器官としての花の機能を失い、訪花動物を誘引するための構造のみが発達しているものであり、これを装飾花という。
なお、アジサイの場合、花序を構成する花全てがこの装飾花に変化したものである。この場合、元来の形である装飾花が周辺のみに生じるのを『萼咲き』というのに対して、全てが装飾花になったものを『手まり咲き』と言う。
(ウィキヘディアより)

 

 

ダイコン

宗次郎に
おかねが泣きて口説き居り
大根の花白きゆうぐれ
夫の宗次郎に女房のおかねが泣きながらよく生活の苦しさを訴えていた。大根の花が白く咲いている故郷の夕暮れよ。 モデルは渋民の農業沼田惣次郎夫婦で、通称おかねさんと呼ばれた女房のイチが酒飲みの夫をつかまえて泣きながら処世の苦しみを訴えていたある日の光景を歌ったもの。(「石川啄木必携」 岩城之徳・編)

貧しい農村の哀愁を歌ったものでしょうか。
1~2年生草本で花茎は60~100cmくらい、長楕円形のがく片と、卵形の花弁がそれぞれ4枚の、典型的なアブラナ科(十字架)の花です。 花色は白、まれに黄色や紫混じりのものがあります。
2018.9.1      写真はミニダイコンの花
原産地には諸説がありますが、ダイコン属の野生種は地中海沿岸に多く、栽培の起源はエジプトと言われています。学者の考証によると、シルクロードを経て中国には2,400年前、わが国には1,200年前に渡来したとされ、かなり古い時代に分布を完了したことから、形態の変化が非常に大きい作物です。

<世界一のダイコン国日本>
於朋 禰(おほね)、須々志呂(すずしろ)などとも呼ばれ、これほど四季を通じて米食と密着した野菜は数多くありません。 獅子文六は『食味歳時記』、に

ダイコンなんて、明日からなくなってもいいという、若い人は多いだろうが、・・・・・ 大根ほど、日本的な味わいを持っている野菜は、少ないのである。  そして日本ほど、ダイコンの食べ方の研究が進んだ国もないのである。

と書いています。 明治38年に農林統計が始まって以来、常に作付面積の王座を譲らないのがダイコン。汁の実、煮食はいうに及ばす、おろし、なます、切り干し、そしておでんには欠かせないもの。 漬物には万能選手。なかでも有名なのはたくあん漬けで、臨済宗の高僧沢庵が始祖として知られていますが、定かではなく、“ 蓄え漬け ” が転じたものともいわれています。

<ダイコン仲間の変わりだね>
変異が起きやすく風土によく馴染むので、特色のある地方種が沢山できました。 三浦、練馬、聖護院、阿波、美濃など、地方に由来するものだけでも枚挙にいとまないほどです。
世界でも一番長いといわれる守口大根は、長さ120cmに及ぶものがあるそうで、長良川や木曽川の流域に堆積された肥沃な砂質土に限られて生産されています。 直径3~4cmで細く、辛みが強いことから生食には不向きで、もっぱら守口漬けとして愛好され、土産品として有名です。
世界一ジャンボなのは桜島大根。 40kgを超えるものもあって、一番小さな二十日大根に比べると300~400倍もあるという代物。 生育期間も長く、6~8ヵ月もかかるそうです。 冬暖かく、噴火で堆積した軟石層という環境でよく肥大します。

<冬来たりなば漬物で>
かつて、札幌では、新琴似がダイコンの名産地。 霜置くころ、ダイコンを満載した馬車が街を往来した風景は、昭和30年代まで見られた、冬近い北の街の風物詩でもありました。 そして、葉も干したり漬けたりして、厳しい冬の生活に懸命に備えたものです。
世は移り食生活も変わりました。 そして今、日本最大で最長の不景気を迎えています。 冬の食生活、昔の人たちの方が賢かったような気もしますね。
(札幌市農業センター 林 繁)

<余談>
我家ではダイコンのビール漬けを毎年ほんの少し作っています。 かれこれ30年近くになります。 お盆の頃にタネをまいて11月上旬に収穫します。 タネをまいてから約80~85日で収穫です。 それを1週間~10日程天日干しにします。 10月中旬過ぎ頃から、我家の周りでも個人の庭先にこれを見かけることが出来ました。 しかし、10年程前から、この天日干しの姿が見られなくなったと感じていたのですが、最近では、スーパーや食品店の店先にも10本入りの袋詰め漬け物用ダイコンを見かけなくなりました。 泥の付いたダイコンなどはほとんど見かけません。 以前は店先に山のように積み上げられていたのですが、それがなくなってしましまた。

私は昭和20~24年生まれの団塊世代後の生まれなのですが、団塊世代と私の世代も含めて現在65才以上の人々は、子供たちは親元を離れて独立して家に残っているのは老夫婦二人だけになっている世帯が多いのではないでしょうか。 お漬物を大量に作る必要もなくなってきたのでしょう。 スーパーに行けば多種多様な漬け物が袋入りで売っているので、敢えて手間暇かけて漬け物を作る必要性、動機が薄れてきているのです。 親元を離れた子供たちも、それは懐かしい味でお母さんが作ってくれるなら食べるけれど、お母さんに教えてもらって再度作ろうという気持ちはさらさらなさそうです。
30~40年前は街のあちこちでダイコンの天日干しを見かけました。 現在はその姿を見かけることはなかなか難しくなっています。 昔ながらの初冬の風景が一つ消えていきます。

 

 

台風、そして地震

札幌に来て40年余になりますが、今回の地震が一番揺れたような気がします。
平成5年の奥尻地震のときも揺れたのですが、今回の方が強かったように思います。
それに、余震が多くて、最初の大きな揺れの後、1~2時間に1回、ガタッと揺れるのです。 小さな地震が来るたびに、震度7程度の揺れの可能性があるなどとラジオがいうので、その度に心配が増すのです。
さらに、停電になったこと。 停電になった当初は、2~3時間で回復するとそれほど心配はしてなかったのですが、ラジオは 全道の全戸の回復には1週間以上かかりそうだと言っているので、懐中電灯の灯りで、テレビもパソコンもない不安な夜を何日も過ごすのかと考えると、うんざりするというか気分が滅入ってしまいました。

私の住んでいる南区は、清田区や東区と違って地震の被害はほとんど無かった?のですが、電気が長時間使えなくなるだろうから、水道も止まるのではないか?という連絡を受け、我家も浴槽に水を溜めたり、料理用の大きなボールや鍋に溜め置きしました。 また、電気が回復したときに発生する通電火災(地震で倒れた家具が電気コードを傷つけ、通電時そこがショートし火花が出る)が起こる可能性があるというので、物が落ちたり家具が倒れることはなかったのですが、とりあえずブレー カーを落としました。 防災訓練で非常食(お湯を入れるだけでご飯ができる)を二つもらっていました。 炊飯器が使えないので、これは重宝しました。 ろうそくがなかったので、近くのコンビニに行ったのですが、店員さんは電卓で計算してからの支払いとなるため、カウンターは長蛇の列で、あきらめてすぐ帰ってきました。

我家には手回しで発電するラジオ(懐中電灯にもなる)があり、しかも、携帯電話の充電できる接続箇所があるのですが、古いというか、手元にある携帯電話と接続できないものでした。 今回のような災害 が起こると、知り合いからたびたび携帯電話がかかってくるので、相手と会話中でもバッテリーが心配になってきます。 携帯電話を充電できる手回しラジオは災害時には必携のようです。

なんやかんやあった1日でしたが、幸いにもその夜の7時ごろ、日が沈んで世の中が真っ暗になったとき、街路灯が点灯しました。 滅入っていた気分がさぁーと抜けました。 電気のありがたさを実感しました。 早速、テレビをつけて地震情報を見ました。 電話で凄いことになっているとは聞いていたのですが、テレビで見るとやはり凄いことになっていました。
幾重にも続く山々に土砂が流出して赤茶けた三角状の山肌とその上部を被さるように樹林の緑が拡がる様は、今までに見たこともない凄まじいもので、「こんなことも起こるのだ」とテレビに見入りました。 その映像を見ていると、被害にあわれた方や地元の方には失礼な表現で、申し訳ない思いなのですが、それが世界遺産で見る特異な景観、自然が作り出したある種の規則的な美しさ、なかなか見ることの出来ない光景だと感じてしまいました。

地震の前日、北海道を台風が通過しました。 台風21号です。 ここ何年もなかった強風と大雨です。 気象庁のデータによると、厚真町で120mmの雨が降っています。 西日本では大した雨の量ではないのですが、北海道では年間降水量が1,000mmくらいなので(厚真の過去30年間の年間平均降水量:1,014mm)、1日で1年間の1割強の雨が降ったことになります。
また、最大瞬間風速は34.3mを記録しています。 この風速は、林に生えている樹木にとってめったに経験の出来ない強風であっただろうと推測します。

樹木は強風にあおられ、幹枝葉は大揺れに揺れます。 それと比例して根も揺れます。 揺れると土壌と根の間に隙間ができます。 そこに雨が入り込みます。 おそらく、風の伴わない通常の大雨に比べて、より多くの水分が土壌の中に存在したのではないでしょうか? そこに瞬間風速34.3mの猛風です。 根が張っている部分、地下100cmくらいまでの土壌は、極端な言い方をすれば、だぶだぶの状態 になっていたのではないでしょうか?
もともと土砂崩れの起きやすい土質にこれらの気象条件が重なり、さらに震度7の地震が決定打となって、今までに見たこともないような現象(災害)が起こったように思います。

 

 

コマユミ


2018.9.2
9月2日(日)に石狩川河口のはまなすの丘公園へ行った帰り道で見つけました。
写真左は、石狩浜と国道231号を結ぶ道路です。 この一帯はカシワが群生しており、道路両側の黒々とした樹木はカシワです。 その道路縁のところどころに生えていたのがコマユミでした。
写真中央がコマユミの株、左がコマユミの実(果実)です。 ちょうどこの時期から赤くなるようで、まだ青い実もありました。

2011.10.16                                                    2013.9.29
9月末になると、果実も成熟し、裂けて黄色の果実が飛び出す?、顔を出します。
コマユミという名前なので、マユミと近縁だと思ってしましますが、コマユミはニシキギの園芸品種だそうです。
・ニシキギ:Euonymus alatus Sieb.
・コマユミ:Euonymus alatus f ciliatodentatus Hiyama
写真右の右側がニシキギ、左がコマユミ

<余談>
マユミやニシキギは公園などでよく見かけるのですが、このコマユミはそのような場所にほとんど植えられておらず、また、自然林や郊外の道路脇でも見かけたことがなく、見るのは北大植物園と森林総合研究所だけでした。 それで、石狩浜近くの道路脇で野生のコマユミを見つけたときは、この種は砂地に適した植物かな?と思ったりしました。
ところが、「札幌の植物」(原 松次)で調べてみると、札幌のほとんど、いたるところに生えているようなのです。(札幌の山、公園、地区など53か所の地点のうち
40ヶ所、ちなみにニシキギは屯田の1ヶ所のみ)
たしかに、他の樹木に比べて特徴的な葉を持っているいる訳でもなく、株もそんなに大きくならないので、もし見つけるとしたら、秋口に実が赤くなる時期ぐらいです。 そういう意味では、自分自身がそんなに自然林の中を歩いているわけでもないので、見つけづらい樹木なのかもしれません。

 

 

サイクリング

9月2日(日曜日)は久しぶりの好天に恵まれたので、札幌郊外をサイクリングしてきました。
コースは我家(南区)から豊平川のサイクリングロードをひたすらに走行。 石狩川河口近くに架かる鉄橋、石狩川橋梁を横切って国道337号に。 ここまでで自宅から約35km。 国道337号を西(小樽方面)に向かって走り、創生川通とぶつかる地点で国道231号に切り替わり、それをさらに走り、石狩川の河口先端にある、はまなすの丘公園へ。 自宅から約55km。 帰路は、石狩浜沿いの通りを走り、再度国道337に号に出て、前田森林公園へ。 自宅から約75km。 新川通を通って自宅に。
朝8時半に出発、午後1時半に前田森林公園で昼食。 帰宅は4時半。 総走行距離約100km。 昼食・休憩を含めて、自転車の時速は12.5km。

以下の写真は、コース順に撮ったもの。
ミュンヘン大橋下流左岸から札幌中心部を撮影。

都心部を超えて、北13条大橋上流左岸から都心部を撮影。 山の稜線、写真右側の二股で高くなっている左側の山が手稲山。 その少し手前左側にある白くて細長い高い建物は、札幌駅前のJRタワー。

石狩川の堤内(水が流れている部分)。 手前の芝生は傾斜の緩やかな築堤。

石狩川に架かる鉄橋、石狩川橋梁。 北海道で一番長い鉄橋。

国道337号の生振(おやふる)大橋から茨戸川を撮る。 向こう正面中央、山の稜線で尖った山は手稲山。
茨戸川は、治水のため石狩川から切り離された旧川(現在は三日月湖)。
札幌市と石狩市の境界付近、国道337号沿い。 秋まき小麦が7月末頃に収穫された後の耕起。 秋まき小麦のタネをまく時期は9月中旬なので、その準備なのでしょうか? それとも、このまま冬を越すのでしょうか?
三角形の白い橋は、花畔(ばんなぐろ)大橋。 手前の黄緑色の作物はお米。 今ではほとんど見かけない水田が残っていました。
国道337号沿いの農地は、昭和40年代、今から50年程前までは、写真のような水田が広がっていたのではないでしょうか? この国道沿いを走ると、草地の中に雑木が生えている場所、昔水田であったであろう場所をよく見かけます。
石狩川放水路。
写真奥が石狩湾。 この橋(国道231号)の反対側100m程先で茨戸川につながています。
昭和56年(1981年)夏、今から37年前、北海道に大雨が降り道央の石狩川周辺地域は大洪水に見舞われました。 この洪水で札幌市北区屯田3番通以北は湖となってしまい、この地域の人々に大きな被害を与えました。 その解決策の一つとして、石狩川の水を早く海に流出させるために作られたのが、この放水路です。
前述の石狩川の流路変更(茨戸川=石狩川の旧川)もやはり大洪水が原因です。 まがりくねった石狩川を直線で結びました。それが今の石狩川です。
石狩川河口先端に位置する「はななすの丘公園」。 その公園内にある石狩灯台。 公園内を走る木道。 写真右、茶色の建物はビジターセンター。
1957年、今から61年前の封切映画「喜びも悲しみも幾歳月」の撮影場所の一つとなった石狩灯台。 時期は先の戦争(太平洋戦争)前後で、灯台守とその妻の苦労話。

小学生の時にこの映画を見ていて、内容は全く記憶にないのですが、画面が暗く激しい波の音だけが頭の片隅に残っています。 そして、印象に残るメロディなのか、若山彰の声が良かったのか、その歌詞はいまだに憶えています。

俺ら岬の灯台守は
妻と二人で沖ゆく船の
無事を祈って灯をかざす
灯をかざす


はまなす公園に生えているハマナス。 普段公園などで見るハマナスと全く違う形状。 草丈は20cm前後で地面を這っている。 これらハマナスは地下茎でつながっているそうで、この地帯の砂の移動による地形の変化にも素早く対応するためでしょうか?。

番屋の湯から海岸沿いの道路を西に向かって行くと、写真の光景が広がっています。 一面がススキが原。 これが道路沿い数kmに渡って続いています。


前田森林公園のカナール 全長約600m。 両サイドの樹木はポプラ(クロポプラ)

写真右側にカナール