学校緑化  石山緑小学校

平成31年4月に石山小学校と石山南小学校が統合されて、石山緑小学校が新しく開設されました。 統合される前の石山小学校の校庭(グランド)は狭かったために、それに合わせて学校用地を拡張し、そこに新校舎を建てて、旧校舎を解体した跡地を校庭(グランド)したのです。 ということで学校全ての施設が新しく建て替えられたということになります。
2020.6.15
石山緑小学校正面の植栽。 比較的大きめのオンコ(イチイ)とサクラが植えられています。 これらの内のオンコ(イチイ)は、おそらく旧石山小学校にあったものを
移植したようです。
2020.6.15
グランドの植栽。 写真ではわかりづらいですが、グリーンのネットフェンス沿いに
生垣があります。 グランドの植栽はそれだけで、多くの学校にある、エゾヤマザクラ、シナノキ、ヤマモミジ、プラタナスなどの高木類の植栽は見当たりません。
2020.6.15
垣根の高さは60cm程で、ヤマツツジが植えられています。 2020.6.15
学校の裏手にはエゾヤマザクラが20本程度、住宅地との境界には、グランドと同じ生垣が設けられています。

<学校緑化について思うこと>
今から48年前の昭和47年、札幌市が政令指定都市になった年(オリンピックが開催された年)の人口は約105万人で、私が札幌市のみどりの推進部(当時の名称:緑化推進部)に属いていた昭和60年代の人口は約160万人です。 その13年間に人口は約55万人が増加しているので、その当時は毎年4万強人口が増えており、それに伴って小中学校が何校も新設されていました。 学校が新設されると、学校の周囲に樹木が植えられます。 それは、札幌市の教育委員会が当時の緑化推進部に「これこれの予算で学校の緑化をお願いします」というようにその植栽の委託をするのです。 そうすると、緑化推進部の工事担当者が学校植栽計画図をつくり、それを教育委員会の担当者と新設の小学校に説明し、了解を得た後に、工事に着手するのです。 植栽工事終了後それを教育委員会に引継ぎ、この委託業務は終了します。
その当時、新設学校の植栽ではグランドの周辺に高木を植えるのは、当然、当たり前で、石山緑小学校のように、高尺フェンスの下に高さ60cmの生垣だけで終わるなどとは考えも及ばなかったのです。 教育委員会が緑化推進部に委託する予算もグランドの周辺に高木を植えるだけの額が積まれていました。

日本が戦後復興を果たし、1960年代から産業の高度成長期に入ると、全国で石油コンビナートなどの大規模な工場が建設され、産業の振興による大都市へ人口流入が起き、東京や大阪などの都市部では大幅に人口が増加しました。 それに伴い都市部とその周辺地域の田畑や森林が工場や道路などの用地として開発されていきます。 そして、それが行き過ぎてしまった結果、全国各地で公害問題が発生し、都市部及びその周辺での自然破壊が急速に進み環境問題として発展していきます。 それに呼応するかのように、自然を守ることの大切さや都市部での緑の重要性の機運が高まってきました。 札幌市においても、1970~90年代にかけては都市人口の増加に伴い大小様々な公園がつくられ、市民の緑を増やすことや守ることに対しての意識は強かったのです。 このような背景のある時代に新しくつくられた学校も、当然のように多くの樹木を校内に植えられました。

しかし、校内に植えられたプラタナスやサクラなどの樹木も10年、20年と経つと相当大きくなり高尺フェンス脇に植えられた樹木の枝がフェンスからはみ出したり、住宅地沿いに植えられた樹木は越境して落葉や日陰になるなど苦情が来たり、また、強風が吹くと枝が折れて、それが子供達に危険であるとの父兄から苦情が来たりなど、樹木が大きくなることによって様々な問題や課題が出てきたのです。

公立の学校の先生は学生に学問を教えることが仕事で、建物やそれに付随する施設の改修など維持管理に伴う費用は教育委員会が持っています。 樹木が大きくなって父兄や近隣住民からの苦情がきても学校側は自分の意思で樹木の剪定などその苦情への対応は出来ず、教育委員会の判断を待たなければなりません。 それが直ぐにできるものか?1年待たなければならないのか?、その判断は教育委員会が持っています。 学校側にとっては歯がゆいというか、もどかしいというか、事態を自分たちの意思で決められない苛立ちが増してきます。

そんなことを繰り返していると、新しい校舎を建てる話が出てきたとき、学校の先生たちも教育委員会の担当課も、校内の植栽はなるべく問題が起こらないような樹種や形態にしようということになります。 その結果が石山緑小学校の学校植栽に現れた姿だと思います。

それでも、新学校の名称が石山緑小学校であるように、「緑」という単語は人々にとってイメージとしては大変良いのですが、身近で迷惑な緑はやはり敬遠されるようです。

 

雪化粧

シベリアから寒気が南下して、日本列島は今冬一番の寒さになりました。 札幌もここ2日程、最高気温が-5℃、最低気温が-10℃前後の寒さが続いています。 この寒気の襲来で本州と北海道の日本海側は大雪となっているようです。 我家の周辺(南区石山)の降雪は20cmとそれ程でもないのですが、札幌の中心部では40cm以上となったようです。

札幌管区気象台によると、道内主要22観測地点の1月の降雪量がいずれも平年を下回り、平均すると平年比47%で1961年の統計開始以来最も少なかったそうです。 もしかすると、2020年の1月は1世紀に1度あるかないかの少なさで、現在札幌に生きている人の誰もが経験したことのない少雪だったかもしれないのです。
それが一転して2月に入るや否や大雪となり、1日の降雪が40cmを越えるのは20年ぶりだそうです。

2020.2.6
久しぶりのまとまった雪で、我家のお隣さんの屋根、道路脇に積まれた雪、車が走る舗装面、見るものすべてが新しい雪で真っ白になって、 それに加えて雲一つない快晴が雪化粧に新鮮さを与えています。

早朝の散歩に出かけると、靴底からきゅっきゅっ金属音が聞こえます。 もう少し暖かいと、その音がぎゅっぎゅっと音が濁ります。 少し歩くと、顔に当たる空気が肌に突き刺さって頬が痛くなってきます。 おそらく気温は-12〜13℃になっているのでしょうか。
道路にはジョンバーで玄関前の除雪をしている人、除雪機で雪を飛ばしている人など、普段より多くの人を見かけます。

国道沿いを歩くと、つい先日までは通り過ぎる車の音がゴーゴーとうるさかったのですが、この日は静かです。 舗装面は真っ白な圧雪なので、車もゆっくりと走るためか、その音はスースーと静かなものです。 辺り全体が1月のうるささから新雪に包まれてもの静かな雰囲気に一変しました。
2020.2.6
普段の散歩コース。 時刻は朝7時半過ぎ。 2020.2.6
まだ陽が出たばかりの低い太陽光線に細い枝の先まで雪をまとった樹木が映えます。  光と影。 雲一つない空。 今冬初めての新鮮な雪景色。

しかし、細い枝に積もった雪も少しの風で落ちたり気温の上昇で溶けたりで、午後になるといつも見かける冬の枯れ木に戻ってしまいます。
一瞬の、束の間の、ほんのひと時の美しさです。

 

 

余談 インフルエンザ

先週の木曜日(1月16日)、水泳に行こうと車で出かけたのですが、途中で止めて引き返してきました。  普段とはいまいち違う感覚、冷たい水で泳いだらヤバイと体が感じたようです。 とりあえず、家に戻りおとなしくしていました。 熱が出てきたのか?体が怠いというか重く、その日は早めに床に入りました。 翌朝早く目覚めると体がやたらと怠いのです。 喉はそれほどでもないのですが、体の節々が痛みます。 食欲は無く朝食もあまり進みません。 体温を測ると40.5度。 午前中は様子を見ていたのですが、我慢出来ずに午後病院へ。 診断の結果インフルエンザと判明。

薬は、2種類の対インフルエンザ薬、吸入剤と解熱剤、それに、体温が38度以上続いた場合に飲む薬を処方されました。 今流行りの、タフミルやゾフルーザは無かったです。 受付時に問診票に記入するのですが、ゼネリック医薬品を希望するか?の問に “はい” と答えたので、それで出なかったのかも知れません。

40度台の熱は翌日(18日;土曜日)の夜まで続きました。 食欲はなく、口に入るものは果物やアイスクリーム、冷やしたゼリー等口当たりの良い物だけでした。
じっと布団に横になっていると腰は痛くなるは、立ち上がって歩き出すとふらつくは、体の節々は痛むはで、70才の声が近くに聞こえる歳になると、40度を超す熱は身体に堪えます。

それでも、翌朝(19日、日曜日)には熱も38度台に下がり、夜には37度台に下がりました。 節々の傷みや体全体の違和感は残っているのですが、食欲も出てきて体もだいぶ楽になりました。

約2日間、40度という高温が続いたことになります。 20~30代の頃、扁桃腺が腫れて39度台を出すことはよくあったのですが、40度を超す熱は自分でもあまり記憶にないのです(インフルエンザに罹るのは初めて)。

私は健康には気を使っているつもりで、30万歩/月を目標に朝のウォーキングを20~30分、2〜3回/週の水泳に行っていています。 ここしばらく風邪も引いていなかったので、自分の健康維持に自信を持っていたのです。

ところが、このインフルエンザです。
電車など人込みに触れる機会はそれほどでもないのです。 心当たりは、最近(ここ2〜3か月程)夜中に目覚めると口の中がカラカラになっていることが多く、必ず、お盆にお茶か水を傍に置いて布団に入っていました。 鼻が詰まっているのか?、寝方が変わったのか?、歳なのか?、どうも、口を開けて眠っているようです。 このことが喉の粘膜を弱くして、インフルエンザのウィルスに接触する機会が少ないにもかかわらず、入られるとすぐに罹ってしまう状態になっていたのではないか?と考えています。 インフルエンザに罹る辛さを考えると、その対策、口の体操(あいうえお と口を大きく開けて発音し、口と喉周りの筋肉を鍛える)や口にテープをはって口を開かないようにして眠る などの対策が必要です。

インフルエンザが重症化して肺炎などにならなかっただけでも幸いでした。 倦怠感がなく、早朝のウォーキングや水泳に躊躇なく行こうと思う気持ち、普段の生活ができるようになるのに9日かかりました。
インフルエンザには二度と罹りたくないですね。

皆様もくれぐれもご用心を!!
自分の体には気を使ってあげてください。

 

 

しめ飾り

下の写真は我家の玄関に飾り付けたしめ飾り。 この飾りは毎年1月7日、七草がゆを食べる頃に取り外して、暇を見つけて神社にもっていっています。

今年も例年通り、何も考えずに昔からの慣習に従って飾っています。 最寄りのスーパーで買ってきました。 クリスマスが過ぎると、スーパーの店内は正月関連の商品に模様替えをして、お店の一画にしめ飾りのコーナーが設けられます。 高価なもので数千円から500円程度の安価なものまで多種多様なしめ飾りが並んでします 我家のものは最低クラスの800円程です。

ご近所のしめ飾り。 大きさは高さ1m近くあり、我家の低価格しめ飾りに比べ、トドマツを使ってボリューム感出しています。

しかし、この風習・慣習もだんだんと廃れてきているようです。 年明けから朝の散歩でそれとなく各戸の玄関を見て歩くと、このしめ飾りを玄関に飾ってあるお宅は意外と少ないのです。 5~6軒に1軒くらいの割合でしょうか。 以前(10~20年前?)はもっと飾ってあったような気がします。

我家の周りは、昭和60年代~平成の始めに建てられた住宅がほとんどで、そこに住んでいる人は、私と同年代か少し年上の、昭和20年代の生まれの、日本が先の戦争に負けた直後かその後に産まれた、所謂団塊の世代で、まだ戦後間もない昔の風習や慣習が色濃く残っているいる時代に生まれ育った人達です。 その彼らが職を求めて札幌に来て、新しい家を建て、子供が出来て、その子供たちと一緒に生活している時期までは、彼らに日本の伝統や昔の慣習を後世に伝えていくという気持ちがあったのか?、幼い頃に見聞きし教えられた慣習を思い浮かべながら、スーパーで買ってきたしめ飾りを飾っていたのです。 しかし、その子供達も成長し、家は夫婦二人だけになって正月に子供達が帰ってくるものの、何代も続いている農家や商家などと違い、代々受け継がれてきた慣習を守り続けなければならない動機がほとんど無い世代にとって、その気持ちが薄らいでいくは当然の成り行きで、その流れは理解できるものです。 おそらく、我々の子供が私と同じ年代になる頃には、玄関前のしめ飾りも当たり前の姿ではなくなっているのでしょう。 この日本で古くから受け継がれてきた風習・慣習は、アメーバが生息域を侵食拡大していくように、都会の新興住宅地から徐々に徐々に侵食されて無くなっていくのでしょうか?

<余談:お正月の神棚>
私の故郷は福井県の西部、若狭地方で、実家は商売をしています。 店には商売の神様、恵比寿様?を納める神棚があるのですが、お正月には別途座敷に神棚を設けて神様をお迎えするのです。 親は年の瀬で忙しく、これらお正月の仕来たり、神棚を準備するのは子供の役割になっていました。 年に一度のことなので何をどこにセットするかなどその配置が定かではなく、ああだこうだと言いながら正月の準備をしたのを憶えています。

納屋に仕舞ってあった、1年に1回だけ使う道具?神具?は、
長さ1.5m、幅40cm程の長机に畳の上敷きに使うい草?を簡易に編んだすだれのようなもので被い、その上の中央に40cm?四方の黒塗りの三宝※1のようなものを置き、その左右には熨斗口※2、と灯りを配置します。
三宝の台座にお米を三角錐に盛り、その頂上に昆布を巻いて筒状にしたものを置き、その上に小さなミカンをのせたような記憶があります。 お米の山の裾野に黒い鉄製の、ひげの長いエビがミカンを見上げるように置きます。 三角形の熨斗口は白くて細長い徳利状の陶器に挿し、灯りは十字型の木製台座で、その三方に真ちゅう製の皿を2枚重ねて置き、それに油を注ぎ、白いひも(灯芯:家では “とうしみ ” と言っていた)を寝かせて火を灯します。
神棚の後方の壁には掛軸をニ幅垂れ下げます。 一幅はどうも記憶に残っていないのですが、もう一つは天照大神という大きな字が書かれていたので憶えています。

※1:三宝:さんぽう、身近なところでは正月の鏡餅を載せる台
※2:熨斗口:神棚の瓶子(へいし)と言われるお酒を入れた陶器に刺さっている物の名前で、 神酒口( みきくち)や熨斗口(のしくち). と言う。

年越しそばを食べて紅白歌合戦が始まる、大晦日も本番を迎える頃、明治生まれの父親が神棚の前に正座して拝むのです。 この1年を無事に終えられたことを感謝し、来年もいい年であるようにお願いしたのでしょう。 神様と何をお話しているのか?、その手を合わせるときは思いのほか長いものでした。

 

 

門松

明けましておめでとうございます。 令和になって初めてのお正月です。
今年もよろしくお願いいたします。
昨年と同様に当ブログに立ち寄っていただければありがたいです。

今冬の札幌は極端に雪が少ないです。 我家の窓から見える庭は芝生の緑と薄っすらと積もった雪の白でまだら模様をつくっています。 例年、年末年始のこの時期になると、幹線道路の両サイドにはうず高く積まれた雪山ができるのですが、今年は車道と歩道を区切る縁石が見えています。 幸いなことに道路に積もる雪も数cm程度なので車や人で踏みつけられたり、溶けたりでそれほど気にしなくても歩けるため、今冬は玄関前の雪をちょこっと除ける程度で、本格的な除雪をまだ一度もしていません。 大変助かっています。 札幌に来て40年余になりますが、このような少 雪は初めてことのように思います。 これも地球温暖化の影響なのでしょうか? 大雪と少雪、この振幅の幅が大きくなっているような気がします。 今年のように小雪があることは、何倍返しの大雪、何十倍返しの大雪だってあるのです。 肝に銘じなければなりません。

毎朝、散歩をしてるのですが、その時見つけました。 門松です。 造園会社さんの事務所の前に飾ってありました。 何か久しぶりに見たような気がします。 10年以上? いやそれ以上前のような気がします。 それほどに、この門松、見かけなくなりました。
2019.12.29
門松の材料は、タケ、マツ、ウメで、タケは真竹、マツはトドマツ、ウメは造花でした(北海道では仕方ありません)。
2019.12.29
六角形の植込み鉢を杉皮で被い、その角々に半割の竹をまいて縄で結わえてあります。 門松にはいろいろな形態があるようですが、この門松は、この造園会社さんに代々受け継がれている伝統的なものなのでしょうかね? 正面の飾り結び、初めて見ました。 形的にはウメの5枚花弁を連想しますが、何という呼び名の結び方なのでしょうか?